高橋五郎の随想 (河北新報夕刊に掲載)
随想のもくじ 【1994年1月~2月・河北新報夕刊連載より】
・第1話:『本業』 ……………………… 1994年1月6日掲載
・第2話:『仙台とマンドリン』 ………… 1994年1月13日掲載
・第3話:『がん告知』 ………………… 1994年1月20日掲載
・第4話:『酒』 ………………………… 1994年1月27日掲載
・第5話:『最後の晩餐』 ……………… 1994年2月3日掲載
・第6話:『最古のこけし古文書』 ……… 1994年2月10日掲載
・第7話:『こけしは祝いの人形』 ……… 1994年2月17日掲載
・第8話:『郷土人形館』 ……………… 1994年2月25日掲載
1.本業 <1994年1月6日 連載第1話>
日中、比較的時間の余裕があることからか、「お仕事は何ですか」と尋ねられる。格好つ けて音楽家とでも答えればいいところであろうが、照れくさいので「マンドリンです」と言う。すると、十中八、九の方が「ハハーン、古賀メロディーですね」とくる。
流行歌を軽視するわけではないが、マンドリン音楽に自分なりの理想と夢を抱いているので、特に若い頃は古賀メロディーといっしょくたにされるがとても嫌で、いきおいクラシックのマンドリン
を強調することになる。
ヴィヴァルディ、ベートーヴェン、モーツァルトら、楽聖と称せられる大作曲家たちがマンドリン のための作品を残すほど、マンドリンは歴史が古く栄光に満ちていた。私はそのようなマンドリンに憧れて志したのであった。
しかし、マンドリンは比較的簡単にマスターでき、手軽に合奏が可能なせいか、専門的に勉強 する人は極めて少ない。一般には、通俗的なイメージが濃いのである。
我が師田中常彦先生は大正時代、イタリアに渡り、当時世界最高のマンドリニストとして著名な ナポリのR・カラーチェの下で、延べ13年間も研鑽を積まれ、我が国に初めて本格的な奏法をもたらした方である。最古の慶応大学マンドリンクラブの創設者であり、詩人の萩原朔太郎も教えを受けた一人であ
ることが知られている。戦後、現役を引退されていたが、私はおよそ10年間、唯一の弟子としてイタリア奏法の教えを受けた。その田中先生が、昭和50年に85歳で生涯を閉じられた。ひっそりとお暮らしだったので
弔問客は少なかったが、お通夜に古賀メロディーのご本尊の古賀政男さんが見えられて関係者、一同大いに驚いた。
私の御霊前演奏後、古賀さんは親しく声をかけてこられた。 「私は田中先生と全く別の世界を歩むことになったが、私も音楽の第一歩はマンドリンでした。私は先生と直接お会いすることはなかったものの、いつも偉大なマンドリニストとして尊敬しておりました。
先生の衣鉢を継いで、マンドリンの本道を歩んでください」との、励ましの言葉であった。以来、古賀メロディーへのこだわりも薄れ、本業を「マンドリンです」と、胸を張って答えられるようになった。
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2.仙台とマンドリン <1994年1月13日 連載第2話>
古楽器マンドーラが改良されてマンドリンが誕生したのは、1600年代初頭のことといわれる。その楽器としての歴史は、エジプトの遺跡の壁画に原形が見られるほど遠く遡る。
マンドリンが我が国に伝来したのは、文明開化の明治になってからである。記録によると明治27年(1894年)のことで、仙台出身の音楽家四竈納治(しかまとつじ)氏(1859~1928年)がイギリスから取り寄せたという。それから数えて、今年(1994年)はちょうど百周年にあたる。
四竈氏は、東京芸大の前身である東京音楽学校の、そのまた前身にあたる文部省音楽取調掛の府県派出伝習コースを卒業後、洋楽の啓蒙発展のため幅広い活動を行い、多くの子弟を養成するなど明治期の洋楽普及に貢献した。彼は自らもマンドリンを奏で、いろいろな楽器と組み合わせて合奏を楽しみ、演奏発表を行っていた。彼の六女の清子女史は1903年、仙台に生まれ、後年、マンドリン奏者として中央で活動した。
一説に四竈氏以前に、宮城女学校(現宮城学院)の外国人宣教師がすでにマンドリンをもたらしたとも伝えられ、明治36年に同校の音楽教師スティーク氏がマンドリンを演奏したと記録されている。
大正末期から昭和20年頃まで、澤口忠左衛門氏(1902~1946年)という篤実なマンドリン研究家が仙台を拠点として純マンドリン音楽の啓蒙活動を行った。彼の本業は銀行員であったが、血のにじむような努力を重ねられ、諸外国と情報を交換して膨大な楽譜を集め、専門誌「アルモニア」を発行するなど、日本マンドリン界をリードしたのである。
澤口氏が創設した合奏団は「仙台マンドリンクラブ」と名称を改めて現在に至り、全国的にも例のないほど息の長い活動を続けている。
このように、仙台とマンドリンは縁が深いのであるが、一般にはあまり知られていない。純マンドリン音楽の素晴らしさをより深く追求し、また多くの方に知っていただきたいと、愛好者が集まって結成された合奏団「チルコロ・マンドリニスティコ・フローラ」も、今年(1994年)で30年目を迎える。彼らの、機会があればどこへでも演奏に出かけてマンドリンへの理解を広げたい、という熱意のこもった言葉に純粋なアマチュア音楽の原点を感じ、私も活動を共にし、離れられ
ずにいる。
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3.がん告知 <1994年1月20日 連載第3話>
相変わらず、がんによる死亡率は高く、がん告知の是非が度々、社会問題になる。昨年(1993年)秋、テレビタレントの逸見政孝氏が、自分の病気ががんであることを記者会見で発表して話題になったのは、記憶に新しいところである。
昭和58年2月、私はそれまでに経験したことのない体調の異常を感じ始めた。強い吐き気があり、吐くと黒ずんだ液体が出る。しかし、吐き出すと気分もよく何事もないので、あまり気にもとめなかった。ところが、その間隔が二週間に1回、十日に1回と日を追って短くなり、同時に集中力が薄れ、思考力が鈍ってきたのである。
それまでは、人一倍食欲旺盛で、しかも1日3時間の睡眠をとれば事足りるといった生活であった。十年間程、風邪一つひかず、元気だけがとりえだったのであるが、度重なる嘔吐と変調に気付いた妻は、強く病院行きを促した。病院嫌いの私も観念して、胃カメラ検査を受けることになった。カメラをのんだ途端、それまでにない大量の例の黒い液体を嘔吐した。即入院である。
主治医の話によると、黒い液体は血液が酸化したもので、大変危険な状態だったという。偽りのない病状を強いてお尋ねしたところ、先生はためらいながらも「悪性の腫瘍であり、楽観できない状態だ」と言われた。つまり、がんの告知である。後日、家族の言によると、余命3ヶ月と宣告されたという。
再度の手術で80kgの体重が48kgまで減って、あたかも生ける亡霊のサマであった。薬の副作用などで苦しく、絶望的な心境であったが、足掻いてどうなるわけでもなし、私は残された日を一日一日、後悔のないようにと決心した。そのため、わがまま三昧を言ってはどれほど家族を悩ませ、苦しませたことか。
手厚い看護、そして多くの方々の励ましに支えられ、奇跡的に命を永らえて十年を経過した。回復期、合奏団のメンバーに仕事を代行してもらうなど、物心両面で世話になった。
がん告知の是非は、告げられる人によって衝撃の個人差があるので何とも言えないが、私にとっては心の整理がついたことでマイナスにはならなかった。悲観的にならず、生きることに望みを持って一日一日を過ごすよう、心掛けることが大切だと思う。
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4.酒 <1994年1月27日 連載第4話>
絶望の病の縁から蘇って、十年を経過した。術後の後遺症の胆汁逆流が今なお、一日も欠かさず続いていて悩ませられる。身体を横にすると胆汁が喉元に上がって、焼けるような痛みが走る。息もつまり、2時間と熟睡できない。慢性の睡眠不足状態である。
このため退院当初の一年間ほどはまるで食欲がなく、過度の栄養失調で再再入院する有り様だった。このにっくき胆汁の苦しみも、水を大量に飲んで体内で薄めて吐き出すことを自然と覚えてから、だいぶ楽になった。術後、同じ苦しみに悩む方があれば伝えたい。
食欲復活のきっかけとなったのは、あまり大きな声では言えないが日本酒であった。極端な食欲不振を心配した主治医が「少々アルコールでも飲んでみたらどうだ」と、冗談交じりに語ったのを真に受けて早速、実行に移したのである。手術後に刺激物がいい筈がないと、周囲の人たちから猛反対を受けたが、聞えないふりをして口に含んでみた。本心は恐る恐るであった。口全体に広がるあの感触は、言葉ではなんとも言い表せない。実にうまいのである。
盃一杯程度すらも食することができなかったのが、これを境にして少しずつ量が増えて気力も芽生えやっとマンドリンを手にしたいと思い始めた。2年間休んでいた仕事も再開できるまで、回復した。日本酒さまさまで、正に「酒は百薬の長」である。と、ここまではいいのである。日本酒に味を占め、次第にその量が増加した。酒飲みの気持ちがわかるようになる。「酔翁の意は酒にあらず」など、勝手な理屈をこねて、席を設けては愛飲している。親しい友人と心を打ち開いて飲み交わし、花を見ては飲み、月が美しいといっては飲み。また、一人静かに飲む。いずれも結構、大いに宜しい。
こんな私を、家の者は「折角命拾いしたのだから、酒は控えて身体を大切にしろ」とのたまう。ごもっともなのは重々至極。そのときのみはじっと我慢の子。
近年、私は李白の酒にまつわる詩に惹かれ、傾倒している。大詩人の詠んだ情景を連想しながら、その世俗を離れた風雅の境地に触れたいと思う。ともあれ、酒という芸術品を遺してくれた祖先に感謝したい。「一杯、一杯、また一杯」。今、生きる喜びを享受している。
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5.最後の晩餐 <1994年2月3日 連載第5話>
終戦直後の頃は物質に乏しく、日本国中の誰もが生きることに精一杯で、慌しく働き回り、精神的な余裕など得る暇もなかった。その頃に教育を受けた者は、総じて音楽や美術が苦手で、関心も薄かったようである。私も例外ではなく、歌うこと、絵を画くこと、造ることなどは下手で、敬遠していた。特に美術に関して言えば、教科書や画集を通して目にする名画や彫刻の名作も、素人から見れば上手だと思うものの、実のところ、すべてカタログみたいで何がいいのかわからず、印象にも残らなかった。
昭和48年(1973年)、マンドリンの本場イタリアに遊学した。身重の妻を残し、単身の旅である。各地の名手を訪ねてレッスンを受けるというもので、武者修行の心境であった。時間的にはだいぶゆとりがあったので、訪れる先々で美術館や博物館を見学することにした。
最初に足を運んだのが、ミラノのサンタ・マリア・デレ・グラツィエ教会である。ここに、かの有名なレオナルド・ダ・ビンチの「最後の晩餐」があった。世界的名画を一目見ておこうと軽い気持ちで入ったのはいいが、前にも書いたように美術音痴だったので、薄暗い室内にある古色のついたこの壁画のどこがいいのか素晴らしいのか、トンと理解できない。偶然居あわせた日本人画家に、自分の素直な気持ちを述べてお尋ねした。
すると、曰く「理屈は不要、時間があるのなら何時間でも見詰めてご覧なさい」。この教会で観られるのはこの1点のみだ。折角来たのだから、言に従うことにした。じっと見詰めてどれほど経過したのだろう。突然、画面だけが異様に大きく見え始めた。静まり返って、そこには絵と自分だけが存在した。
次第に、画面のキリストを中心とした十二人の使途たちの会話やざわつきみたいなものが、聴こえてくるではないか。絵自体が生命を持っていて、時代を超えて観る人に何かしら語りかけてくるのである。名画の名画たる由縁、そして人々がさまざまな災難から美術品を守る努力を惜しまなかったことを理解し、実感した。
感動的で貴重な体験であった。以後、数々の名画名作を鑑賞して深い感銘を受け、自分の美術観が大きく変わった。子どものうちから本物に触れさせることが大切である。真の文化人とは、自己の仕事に長じ、かつ芸術・歴史に造詣が深い人をいうのだと、イタリアで耳にした。
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6.最古のこけし古文書 <1994年2月10日 連載第6話>
生徒からもらった1本のこけしが、私を虜にしてしまった。こけしなど、どこの家にも二、三本は転がっていたもので、気にも留めたこともなかったが、そのときは何故か強く心ひかれた。流行に乗った訳でもないが、折しも昭和40年代はこけしブーム最盛期の頃であった。幸運にも、こけし蒐集の元祖天江富弥さん、やがては三原良吉さんや菅野新一さんといった郷土研究の大先輩の知遇を得て関心が深まり、ますますこけし熱に拍車が掛かった。
40年から50年代の私の余暇は、すべてこけしの蒐集と追求調査に費やしたほどである。天江さんの「大正10年にこけし蒐めと研究を始めて半世紀になるが、蒐集家は増大したものの研究の分野は机上の論が多く際立つ進展が見られない。五郎さんは若いのだから、未開拓のところを自分の足で調査をしたらどうか」との言が、活動の端緒であった。調査のノウハウも知らなかったが、前記の先輩方の教唆と助言を頂戴して、実行開始した。
当時、こけし関連資料は皆無に等しく、調査は古老を訪ねて聞き書きを取ることと、資料となり得る文献や古いこけしを探すことに重点を置いた。しかし、子どもの手遊びおもちゃというその性格上、古くなれば処分されるため保存されるものが少なく、まして文献に記されたものは何も得られず、行き詰まりの感が膨らむばかりであtった。
ところが、その昔は木地業を営み、こけしつくりも行ったと伝えられる旧宮城町芋沢のKさん宅を訪ねて、度々話を聞くうちに、古い書類の入った開かずの箱があるという。もしやの期待を抱き、デリケートな交渉の末にやっと拝見の機会を得た。昭和56年12月のことである。
神棚に納められ、ギッシリ詰まった木箱の底から、一冊の古文書が見つかった。「『萬挽物帳扣帳(よろずひきものひかえちょう)万延元年」と表記されたこの文書こそ、研究家待望の江戸期のこけし関連文書であった。
伝説上の「幻の工人」と言われた作並の岩松直助が、愛子から入門した弟子に与えた免許皆伝書である。これにより、文献上初めて、こけしが江戸時代に実在したしたこと、価格や寸法、そして謎とされた作並木地業の実態、さらにその流れが現在の山形系や仙台こけしであることなど、諸々のことが一挙に解明されたのであった。
超一級の史料で、まさに天の恵み。私はそのときの興奮と感動を忘れることができない。
(上記古文書の発見について、こけし史の探求をされていた方の所感が載っています)
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7.こけしは祝いの人形 <1994年2月17日 連載第7話>
昭和三年、最初のこけし専門書「こけし這子(ほうこ)の話」が、天江富弥さんによって発行された。これをきっかけに、こけしはまたたく間に全国に知られることろとなった。時代の流れでこけしは消滅しかけていたのだが、大人の鑑賞品として息を吹き返したのである。
いまや東北を代表する特産品であるのは周知の通りで、三百人を超える工人がその業に勤しむ。特に宮城県は発祥地であり、産地も多く、その歴史も古いことから、いわゆる伝産法に基づく伝統工芸品の県第一号に指定された輝かしい実績を持つ。ところが、こけしに関する史料が極端に少ないため、語源や由来については憶測中心の諸説が語られる。
その中で困るのは、こけしはその名称の発音から「子消し」み通じ、昔、飢餓などで間引かれた子供の供養に用いるため創始されたのだと、まことしやかに説く人がいることだ。インパクトが強く、テレビや週刊誌などでも取り上げるものだから、この説は一般にかなり浸透していて、私もよく耳にする。真に憂慮すべき事態である。
人形類と民間信仰とのかかわりは否定しないが、そもそもこけしが間引き供養のために誕生したなど、まったく根拠のないでたらめな話である。かつての方言を知らない都会人の、興味本位からくる短絡的な語呂合わせに過ぎない。
全こけしに共通する頭部描彩様式は「水引手(みずひきて)と呼ばれ、その源流は堤(つつみ)人形、そして京都の御所人形にまで遡る。これは、御所の中でも特に祝い用の人形として創案され、発達した様式である。当然、その様式を導入し
たこけしも、子どもの健やかな成長を願う「祝い」の人形として誕生したことは、疑いない。それが手遊び玩具として、東北の人々に親しまれてきたのである。このことは、最近発見された古文書類からも裏付けられよう。
しかるに、前記のように、こけしが謂(いわ)れもなく、暗く貧しくジメジメしたものを現在に継承した人形のごとくいわれるのは、こけし愛好家として、また一県民として非常に心外である。たかがこけしといえども、東北を侮蔑し、イメージダウンを助長するような無神経な言動は、いくら言論の自由といえども、慎んでいただきたいものだ。行政とマスコミによる、こけしのイメージ回復キャンペーンを切に望んでいる。
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8.郷土人形館 <1994年2月25日 連載第6話>
平成元年、仙台市博物館での特別企画展「堤人形の美」は、全国の著名コレクターの協力によって、かつてない規模で開催された。江戸期につくられた古人形であるが、時代を超えた美しさは見る者の目を奪って、まさに圧巻。画期的な催しであった。
堤人形は、江戸中期の元禄年間、陶工上村万右衛門の創始と伝えられる。京都伏見に起こった土人形の製法が導入されたと考えられるが、経路は詳らかではない。堤の土人形製作は、やがて岩手の花巻、山形・米沢の相良(さがら)、福島市の根子町など各地に人形産地を派生させ、また福島・郡山の三春張子にも強い影響を与えた。さらに間接的ではあるが、こけし誕生にも大きく関与した。これらはいずれも描彩・造形が秀逸で、我が国を代表する郷土玩具として高く評価され、珍重されている。
堤人形は幕末期の頃、既に人気が高く、1829年の刷物に「江戸又は近國に聞こえしもの」と記されるように、古来、西の伏見に東の堤、と郷玩の双璧に例えられる。しかし、身贔屓と笑われるかもしれないが、江戸期の堤と三春の傑出した容姿・色調・面描、それから醸し出される深い味わい、優艶さこそ比類ないもので、あらゆる人形の最高峰に位置し、花巻・相良やこけしなどの東北産人形がそれに準ずる、と確信している。
ところで、江戸時代、中央から遠く離れて不毛の蝦夷地といわれ、文化面でも大きく立ち遅れていたとされる東北の地で、かくも美的水準の高い人形を創り上げた先人の感性の豊かさ、造形感覚、技術の確かさに驚嘆すると同時に誇りに思う。これらは名もない庶民が庶民のためにつくったささやかなものにすぎないが、その美的完成度の高さは、当時、背景にあった文化濃度が決して中央に劣るものではないことの証である。古人形の傑作の数々は、言葉数の少ない東北人が腕で示した芸術品ともいえるもので、庶民文化の最たるものと評価したい。
時の経過、そしておもちゃという性格上、江戸期の優品で残るものは極めて少ない。それもほとんどは県外に流出し、地元で直接見ることは稀だ。最近、関西の大コレクターの蒐集品の一部が里帰りしたと聞く。これを機に、仙台に、貴重な文化遺産を一堂に集めた本格的な「郷土人形館」設立を望みたい。東北人の心意気を示し、なた特色ある街づくりにも意義深いことではなかろうかと考える。
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